大巨人史
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最新回 第8回  第7回

第9回

作者:長井正広

明治時代、文明開化の波は格闘技まで及んだ。

戦国時代の足軽の組み技から発展した柔術は、嘉納治五郎の手によって、近代化を成し遂げた。柔術は柔道と名を変え、格闘術ではなく、武道として成立した。技術の体系化がはかられ、柔道は大衆に受け入れられ、次第に発展していった。

しかし、殺伐とした戦後の混乱期を生きねばならない格闘家たちには、武道精神はまったく意味をなさなかった。哀しい揺り戻しが起き、武道は一部でふたたび格闘術に滑り落ちた。

しかもそれは、格闘興行の一つのジャンルに変化し(あたかも華やかな女相撲が衰退するのと入れ代わるかのように)、プロ柔術の名を標榜した。他の格闘技、空手なども同様の道を辿ったが、さすがに国技である相撲だけは孤高の位置を保っていた。

プロ柔術は血生臭すぎた。「物語」にはとうてい及ばない、肉体を殺めるだけの「一行詩」にすぎなかった。幅将三郎が生きていたとしても、プロ柔術の興行には手を染めていなかっただろう。プロ柔術は見世物(エンターティメント)というよりは凄惨な格闘に終始し、女相撲の世界とはかけ離れたものだったからである。

……ついにプロ柔術は興行としては確立しなかった。

とってかわったのが、戦勝国アメリカから輸入されてきたプロレスリングだった。

敗戦によって、それまでの多くの価値観が崩壊した。天皇陛下は「人」になり、「民主主義」が絶対の価値となった。戦勝国、占領軍のアメリカが新たな価値観を持って、日本に渡ってきた。焦土を目の当たりにした人々はアメリカ文化に豊かな未来を夢見た。いや、夢見ざるをえなかった。

そして、プロレスリングはプロ柔術にのぞむべくもないアメリカ文化の華に彩られていた。プロレスリングもまた新たな、画期的な価値をそなえていた。

「仏教伝来」、「南蛮文化・鉄砲の伝来」、「尊王攘夷・文明開化」。

日本人はつねに異文化との衝突にヒステリックに反応する。プロ柔術家たちも同様であり、その振幅の激しさは、彼らがこぞってアメリカへ武者修行の旅へ出たことでわかる。ただ一途にプロレス先進国であるアメリカで格闘術を体得するためであった。のちの幅の場合のようなプロレスリングの真髄に触れるための修行ではない。純粋に格闘技を極めるための、いわば道場破りにすぎなかった。

日本人は異文化をすぐに技術に還元してしまう。


昭和二十年代中頃よりプロ柔術を離脱、プロレスラーをめざして転向する者が多数現れ始めた。格闘家として立ち、武道精神を体現すべく時代に対抗しようとする者は他の武道でも(柔道においてもこの時期、たぶんにプロ柔術の影響を受けていた)、わずかだった。

のちに大日本プロレス協会を設立する、皇帝、息道山もこの時期にアメリカへ渡っている。

息道山は伝統ある国技、大相撲出身者だったが、時代の動きに明敏に反応できる行動力をそなえていた。息道山は伝統に押さえつけられる大相撲に飽き足らず、新興のプロレスリングに一生を捧げる覚悟をかためると、親方やタニマチの制止を振り切り、数日のうちにアメリカへ渡ってしまった。

息道山はそのスタート自体が異端だった。プロ柔術家が格闘術しか眼中になかった頃にすでに、のちの幅のアメリカ修行のようにアメリカン・プロレスリングそのものを修行しようとしたのだった。息道山の時代をとらえる嗅覚は、誰も真似できないものだった。ただ理解者は、この時期まったく存在しなかった。

すべての創始者は革命以前には、ただ一人の反逆者にすぎない!

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