大巨人史
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最新回 第7回  第6回

第7回

作者:長井正広

戦後、誰もが背負わなければならなかったことなのだが、終戦の日から五年、一家の大黒柱である将三郎を失った姫子と将兵の二人もまた辛酸を舐めつくした。ところが、どういう経緯があったのか、この年月の暮らしぶりを二人がいっさい口をつぐんでいるために、憶測を生むこととなった。

この五年間をプロレス評論家は「姫子の幻の五年」もしくは「日本プロレス史のミッシング・リング」と呼んでいる。

ただ、幅研究の進んだ現在、当時の暮らしぶりはともかくとして、二人の暮らしていた場所について、二説に絞られている。

紀伊地方説と北九州地方説である。両説は、二人が大阪を離れてから四年、大津通子のもとへ届いた手紙の解釈によって分かれている。

その、ようやく暮らしぶりが落ち着きかけたことを知らせる便りは、涙でにじみ、通子さん、将兵を頼みます、と結ばれていた。姫子の兄、一郎は無事に戦地から帰ってきていたのだが、姫子はけっして実家とは連絡をとろうとしなかった。姫子は幼い通子に甘えるしかなかったのである……。一郎と連絡をとったのは、その後、将兵が東京読捨巨人軍に入団してからのことであった。

通子は姫子のことを慮ってか、二人と同様に口をつぐんでいる。また、一郎すら著作「はるかなり、幅」の中でもこの手紙のやりとりについて、わずか十行ほどを費やしているにすぎない。

現在、封筒は失われ、出雲母の森博物館では便箋のみが保管されている。そこには、消息不明の兄への心配と船出をしたときの不安な心情がつたない文章でつづられている。

「……まるでふなでをまっていたように、あらなみがわたしたちをゆらしました。きんいんまるにのっているあいだ、わたしはずっとしょうへいのあたまをなでながら、こまいぬさまにいのっていました。しょうへいがすこしもなきがおをみせないのが、いじらしくてしかたがありませんでした……」

この金印丸は和歌山の白浜港を経由して、北九州の博多港まで運航していた。しかし、謎を残すことになったのは、姫子の手紙では、港に辿り着いた日数をあきらかに北九州までかかる日数にしながら、船旅の様子を南に向かうだけのように書いていた。

姫子の落ち着き先を確定できるところがなかった。姫子は最後に船旅の途中で心労で伏せたと書いていたが、相撲興行で旅慣れしているはずの姫子としては、あまりにも不用意な手紙だった。通子に対しても苦労を知られたくない、という気持ちがどこかあらわれたのだろうか。そして、封筒が失われている以上、手紙の内容から推測するしかないのである。

北九州説の根拠は日数が重要な要素を占めている。

とぎれとぎれの意識の中でも、たしかに旅程は九州まで辿り着ける、姫子の心情を考えても、故郷からはなるべく離れようとしたにちがいない。また、白浜に向かう途中に倒れたとしたら、そのまま南へ向かっていると錯覚してしまったのではないか。

一方の紀伊地方説は、いくら旅慣れているとはいえ、将兵を抱えた姫子が遠く九州まで向かうとは考えにくいという立場で、方向を根拠にしている。

いざというときのために、断絶状態とはいえ、故郷に近い方が暮らしに不安がないのではないか。日数は船旅ばかりではなく、陸路を含めているにちがいない。そして、なによりも将三郎との相撲興行は圧倒的に近畿地方が多く、その思い出は安心感へとつながるはずである。

もう一通の手紙(これも封筒は失われている)によって、姫子がかつて将三郎の興行主の一人であった山鯛国男のもとに身を寄せていたことが解明されて以来、両説の論争は「山鯛論争」と呼ばれ、日本プロレス史の中でもとくに評論家の格好の研究対象になっている(しかし、山鯛家についてもまだ場所は特定できず、さらには、山鯛家ではなく、山鱒家とする説すら存在する)。

いまだに、彼らの口を開かせるまでの決定的な力を両説とも持っていない。

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